職人、ときどき神保町

都内周辺のコミュニティ、おススメの本、日常などを紹介します。

『コーダの世界』

『コーダの世界』

 

 

この本は友人から借りた本だ。

 

 

前に行なった読書会で、おすすめしてくれた本について、紹介したい。

 

 

tommy-manabi.hatenablog.com

 

 

 

 

コーダの世界―手話の文化と声の文化 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

 

コーダとは?

 

コーダというのは、耳の聞こえない親を持つ聞こえる子供たちのことだ。

 

聞こえないひとから生まれる子供の90%は、聞こえるコーダが生まれる。

 

Chirdren Of Deaf Adults」の頭文字を取って「CODA」という造語が作られたのが、始まり。

 

 

コーダは聞こえないひとの文化である、「ろう文化」と聞こえるひとの文化の両方を経験するのだ。

 

 

 

「ろう者」って?

 

 

「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である。」

(ろう文化宣言から引用)

 

 

この言葉からわかるのは、ろう者は「耳の聞こえないひと」ではなくて、日本語とは違う手話という言語を使っている言語集団ということ。

 

手話は聞こえないひとたちが日本語を補うために使っているコミュニケーション手段ではないのだ。

 

手話は日本語とは違う完全な言語。

 

 

だから、英語を学ぶ感覚に近いかもしれない。

 

 

コーダはバイリンガル

 

手話ができるろう者の両親を持つコーダは、手話ができて当たり前とまわりの人から思われてしまう。

でも、手話ができないコーダもいるのだ。

 

たとえるなら、帰国子女だから「あいつは英語ができる」と思われるのと同じこと。

 

 

日本語が話せて、手話もできると思われてしまうのだ...

 

 

通訳として

 

 

 

話せるコーダは、学校の先生との面談で通訳を任されたり、親の仕事の電話連絡でも通訳として、親との間に仲介役としてはいる。

 

 

ときには、三歳のコーダが銀行のローンのことも代わりに電話で対応しなくてはならないケースもある。

 

「りしってなんだろう」「ローンって?」

 

難しいことばに出会うことで、知らない用語を覚える。そして、ほかの聞こえる生徒よりも、考えが大人なびてくるという。

 

 

 

常識と、マイノリティのはざまで

 

 

 

コーダは耳の聞こえないろう者の両親に育てられていく。

 

 

声と手話をつけて話す両親が当たり前だった世界から、学校に通い始めると両親が出していた声が聞こえている人たちとは違うと気付く。

 

思春期のコーダは、親が「耳が聞こえない」というハンディがあるということを知られても、笑顔でいることが多いという。

 

「ろう者だから」という視線が、辛いのだ。

 

常識と、自分の家庭がかけ離れている。そのギャップがコーダを「強くならなきゃ」と精神的に自立させているのかもしれない。

 

 

コミュニティの重要さ

 

聞こえる生徒の常識と、自分の育ってきた環境がじつは少数派なんだと知ったときに、劣等感を感じたり、常識とは違う言語、考えをもつ両親を受けいれることができなくなってしまうのだ。

 

そのときに、コーダだけで集まる場所があると、客観的に自分の置かれている環境を見れるという。

常識にはまらないといけない「こうじゃなきゃいけない」から、「こうでもいいんだ」と考えかたができるようになる。

 

 

セルフヘルプ・グループということばがある。

 

同じ治療を目的としたひとが集まって、相互に支えあうケアの方法だ。

 

 

 

学校と家庭だけでは、なくて地域のコミュニティやサークルのなかで色んな

立場のひとが集まることで、自分やその周囲のひとをより、理解できるようになる。

 

 

 

それは、コーダの世界でも聞こえるひとにとっても共通していること。

 

 

そんな、コミュニティをぼくは、どんどん増やしていきたい。

 

 

 

コーダの世界―手話の文化と声の文化 (シリーズ ケアをひらく)

コーダの世界―手話の文化と声の文化 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『蒼く優しく』

 

 

蒼く優しく

 

今回も、勇気の出るおススメの歌を紹介する。

 

 

紹介しようと思ったキッカケは、今日、僕が体調を崩して、病院に行ったときに、思ったことがあるからだ。

 

 

訪れた病院は大きい病院。待合室には、お年寄りがたくさん座っていた。

 

人数は50人くらいは、いたと思う。

 

受付では、車いすをヘルパーに押してもらっている患者さんや診療に来た人を、病院の女性係員が列にして、振り分けていた。

 

 

 

ぼくも自分の順番が呼ばれるまで、読書をしながらジッと席で待っていた。

 

 

だけど、周りのひとたちの光景をチラッとみては、ずっと頭のなかで考えていたことがある。 それは、

 

「もし、ぼくが80歳のお爺ちゃんになったとき、それまでに何を経験して、どういう人間になっているのだろう?」

 

 

この問いは愚問なのか。

 

将来のことなんて、誰にもわかりゃしないじゃないかと。

 

 

 

でも、必ずいつかは老いがやってくる。

 

 

読書しながら「ん~」と、読んだ文章の意味が頭に入らず、2回ほど同じ文章をアゲインした。

 

 

 

そして考えた結果まとまった、自分なりのものさしがある。

 

それは、

 

 

何事も諦めない人間でいたい。

 

 

そんなことをパッと考えたときに、この曲が頭のなかで、スーと流れたのだった。

 

 

 

ドリーム☆アゲイン  

 

 

 

ドリーム☆アゲイン DVD-BOX

 

 

僕が小学6年生の頃に、ドリーム☆アゲインというドラマが流行っていた。

 

放送されたのは11年前。ちょうど今みたいに、肌寒くなってきた時期だったことを覚えている。

 

ドリーム☆アゲインは、反町隆史が主演を務めているドラマ。

 

名前のとおり、夢をもう一度追いかける内容になっている。

 

 

このドラマの主題歌が『蒼く優しく』という曲。

  

 

【歌詞】

 

あの日の夢を 今もずっと 追いかけ続けていたら
今ごろ 僕は どこにいて 何をして いたんだろう?

ため息で錆びついたこの鍵で 今もまだ 開くのかな?
信じたまま脱ぎ捨てた 夢と一緒に
僕を待ってる あの日のロッカー

今よりずっと蒼く 優しく見えた空
何を 忘れたんだろう?
何を 覚えたんだろう?
何を 見つけたんだろう?
答えのない問いに 白く澄んだ空
踏み出せなかった あの道は
今ここに 続いていた

何度負けても 間違っても 夢は 終わりじゃない
何度勝っても たった一度の 諦めに崩れてゆく

見上げるほど長い上り坂 今僕の 目の前に
引き返してしまえばまた 後悔だけが僕を待ってる 下り坂

心の叫びなど 誰にも聞こえない
だから笑うんだよ 涙が出るんだよ
だから 輝くんだよ
自分らしさを探して 誰かのまねもしてみた
何かが違うんだよ 誰にも聞けないんだよ
それでも 探していたいんだ  

今よりずっと蒼く 優しく見えた空
何を 忘れたんだろう?
何を 覚えたんだろう?
何を 見つけたんだろう?
あの日よりずっと蒼く 強く信じた空
踏み出せなかった あの道は 今どこに

あの日の僕が ずっと待ってた
心の 行き止まりで
少しだけ話を 聞いてくれるかい?
少しだけ 休んでも いいかい? 

 

 

「踏み出せなかったあの道はいまここに続いていた」

 

 この歌詞が、教えてくれることがある。

 

 

それは、いつでもチャレンジする機会はすぐ、目の前にあるってこと。

 

 

たとえば、ぼくだったら英語を覚えて、もっといろんな国のひとと繋がりたいという願望がある。

 

でも、いまでも願望なだけであって、「ハロー」とか簡単な英語しか話せない。

 

 

英語なんて中学校から習っているし、大学でも英語の授業や留学をするチャンスもいくらでもあったはず。

 

 

英語を話せるようになること。それは僕の中では、上り坂だ。

 

 

上り坂を登るのは、足がパンパンに疲れるし、転ぶ可能性もある。

 

そして登っても、どんな景色が待っているかは分からない。

 

 

だから、上り坂の前でずっと、立ち止まっている。

 

 

 

 

英語をたとえで出したけれど、この「蒼く優しく」の曲を聞いていると、どんなことでも重なる気がするのだ。

 

 

上り坂は人によって、どんな道かは変わるけれど。みんなの目の前にある。

 

 

最後、ゆっくり堂々と、休めるように。

いま、少しだけ目の前にある上り坂に登ってみようかな。

 

 

そう、思わせてくれる曲だ。

即行動②


GReeeeN - 扉

 

 

前回、GreeeNの『扉』という曲について書いた。 

 

tommy-manabi.hatenablog.com

 

 

 

「即行動」ということば以外にも、印象深いことばがあったので、これから紹介する。

 

 

 

 【印象に残ったフレーズ】

 

「意味がないとただ決め付けて 扉閉めてるんだ
見えないよう 聞こえないようにしてるだけ
明日が何が出来るかなんて 君が決めるだけ」

 

 

 

 

意味がないと決めつける

 

 

なぜか、この歌詞が心に響いた。

 

 

自分自身、意味がないから、止めておこうと思ってしまうことが沢山あるからだ。

 

 

 

なぜ、「意味がない」って思ってしまうんだろう。

 

 

最近、こんなことがあった。

 

大学時代からの友人と神田の居酒屋で、一杯飲んだときのこと。

 

 

 

お酒が入ると、その友人とは熱い話になることが多い。

 

 

だいたい、どうでもいい下ネタか、人生観や生き方の熱い話をする。

 

 

 

そのときに、友人から衝撃的なことを言われたのだ。

 

 

「こうしなきゃいけない」、「できない」、「でも」

 

 

僕が、熱い話をしているときに、よくこの3つの言葉を使っているというのだ。

 

 

否定的な言葉を繰り返し、使っている。

 

 

 

どうやら、僕はじつはネガティブマンになっていたみたいだ。

 

 

 

なぜだ。。。。泣

 

 

 

ぼくはなぜ、ネガティブマンになってしまったのか、自分なりに考えてみた。

 

 

他人のものさし

 

理由のひとつに、「他人のものさし」で物事をみてしまうことにあると思うのだ。

 

他人のものさしで生きるってどういうことか。

 

 

たとえば、仕事で考えてみよう。

 

 

仕事をしていると、「仕事の出来るひと」と「出来ないひと」で見られてしまうし、自分もそういう目で、他人を見てしまう。

 

 

 

僕も仕事で言われたことをこなせなくて、帰り道や家で落ち込むことがよくある。

 

 

なんで、落ち込むかというと、周りのひとに言われるからだ。

 

 

「なんで、できないの?」「はやくできないの?」

 

 

こういう、言葉を繰り返し聞くと「ああ、自分はできない奴なんだ」と気持ちが下向きになるのだ。

 

 

でもね、「仕事ができる」ことが本当にすべてなのかな?

 

 

これって、じつは世間のものさしで捉えてしまっている。

 

 

世間のものさしは適当だ。今日は褒められても、明日は違うことを言われるかもしれない。

 

 

ぜったいに、「こうじゃなきゃいけない」と思うと、心が辛くなるもの。

 

 

 

だから、「できない自分」を許してもいいんだと思うことが大事なんだ。

 

 

 

自分のものさし

 

 自分のものさしってなんだろう?

 

これは、自分で「基準を決めること」だ。

 

 

「しなきゃいけない」の反対は、「こうしたいな」と思うこと。

 

 

 

「こうしたいな」と考えると、自分のなかに基準ができる。

 

 

だれかが決めた基準に従うのではなくて、自分のなかで決めた基準。

 

 

たとえば、英語の勉強をしたい人がいたとしよう。

 

 

●誰かの決めた基準。

 

⇒英語を勉強しておけば間違いないといわれた。興味ないけど、馬鹿にされないように勉強しよう。

 

●自分のなかの基準。

 

⇒外国人の友達と話したいから、英語を勉強する。 

 

 

例みたいに、「英語をしないといけない」と「~のために英語をしたい」の違いでモチベ―ジョンは変わる。

 

 

物事の捉えかた次第で、同じことでも印象がこんなにも変わるのだ。

 

 

 

ネガティブから、ポジティブになるには、自分のなかのものさしを作ってしまうこと。

 

 

自分の「こうしたい」という気持ちを大切にすることが大事なんだ。 

 

 

まとめ

 

 

「 明日が何が出来るかなんて 君が決めるだけ」

 

 

歌詞にもあるように、明日何ができるかなんて、自分で決めること。

 

周りの誰かが、決めることではない。

 

 

「意味がないよ」と思うときって、だいたいは世間のものさしで、物事をみているときなんだ。

 

そうじゃなくて、自分は「こう在りたい、こうしたい」という思いを持つことが大切。

 

 

そうすれば、次の扉が開けるのかもしれないと、この歌から学んだことだ。

 

 

 

 

即行動

GReeeeN - 扉

 

 

 


GReeeeN - 扉

 

今回は、気持ちが前向きになる曲を紹介する。

 

 

GReeeeNの『扉』という曲を知っているだろうか?

 

僕はこの曲に励まされることが多い。

 

 

歌詞には、前向きな言葉がたくさん詰まっているからだ。

 

 

歌詞のなかでも、一番印象的な文章がある。

 

 

 

黙っても過ぎてく日々なら 明後日、明日、今日 意味がある
迷ってばっか 一刻一刻と カレンダーの日付 コツコツと
待ってくれる訳なんてないんだ じゃ今 速攻で既行動!!

 

 

黙っても過ぎていく日々

 

 

 

言葉のとおり、黙っていても、何もしていても毎日は一瞬で過ぎていく。

 

社会人なら、仕事に埋もれたり、学生は時間のあるなかで自分と葛藤することあるだろう。

 

ぼくも、よく考える。

 

 

 

「将来自分は、何をしているのか?」

 

「本当にやりたいことってなんだろう?」

 

 

そんなことは、本当は愚問なのかもしれない。

 

 

答えのない問いだ。

 

 

でも、わかるのは今日、明日が積み重なって、今の自分はいること。

 

 

 

迷っている自分をさらけ出せば、手を止めたり、今や明日のことを考えなくてすむ。

 

 

頑張らなくて大丈夫なように、言い訳ができるんだ。

 

 

でも、その間にもカレンダーの日付は刻々とめくられていく。

 

そして、1年後、3年後に「あのとき、もっと頑張っておけばよかった」と考えてしまうのだろう。

 

 

 

そんな自分を変えるにはどうしたらいいか、歌詞のこの言葉がヒントになるのかもしれない。

 

 

即行動

 

 

思ったが吉。すぐ行動に移すべしとよく言う。

 

 

でも、良い事や自分のやりたいことって、行動に移すのは簡単だ。

 

 

美味しいケーキ食べたければ、今からスーパーに行って、買ってくればいいのだから。

 

 

反対に、やらないといけないことって後回しにしやすい。

 

 

たとえば、LINEの返事。

 

友達に「この日、空いとる?」と言われても「あとで手帳を見ようかなー」と後回しにしたり。

 

 

ほかにも、仕事で使った道具をもとの場所に戻せばいいのに、「あとで戻そー」と後回しにしてしまうこと。

 

 

 

どちらも共通しているのは、今できることなのに、後回しにしてしまうことだ

 

 

 

ひとって、よくわからないことや面倒くさいことは考えるのが苦痛だから、その場の判断を見送ってしまう。

 

 「あとでやればいいや」って。

 

 

 

でも、その場で判断を見送った物事って、あとで絶対にあとで判断を迫られる。

 

 

友達に結局は、返事をしなくてはならないし、整理整頓を怠れば、大掃除という形でやらなきゃいけない。

 

そして、やらなきゃいけないことが溜まっていくと、目の前のことをやっていても、後回しにしていたことが気になってしまい、集中できないのだ。

 

 

 

先でも、あとでもやることが一緒なら、即行動に移すことが大事だと、この歌詞から、学んだこと。

 

 

 

 

即行動を積み重ねていけば、自分の興味のあることに打ち込める時間が作れたり、もっと心に余裕を持たせることが出来るんじゃないだろうか?

 

 

やりたいことも後回しにしてしまう

 

 

 

 自分のやってみたいことも、じつは考えることが多いから後回しにしてしまいがち。

 

 

たとえば、旅行するにも航空券代を調べたり、現地の観光スポットを調べるなきゃいけない。

 

これって、めんどくさい印象はあっても、その場で、スマホで案外サクッと完了してしまうことが多い。

 

きっと、やりたいことも「なにをしていいかわからない」と言い訳にして、立ち止まってしまっているんだ。

 

 

何がわからないのか、深掘る。そして、やらなきゃいけないことが明確になったら、即行動に移す。

 

さっきの、旅行の話でいえば、「旅行したい。けど、準備をなにしたらいいか分からん。よくわからんから、後回しすっか。」

 

ではなくて、「旅行の準備って何が必要なんだろう?あっ。そもそも、旅行に必要な準備すら分からないんだ。じゃあ、スマホで準備のリスト調べてみよう」って。

 

 

やりたいことも、やらなきゃいけないことも即行動。

 

 

黙って過ぎていく、今日を意味あるものにするために、即行動する。

 

 

 

 

 

 

 

 

ゼロからイチを作り出す

自分で感じたことを信じる

 

 

 

今日の昼。社長と昼休憩中に話しているとき、日本でノーベル賞を受賞した本庶佑(ほんじょたすく)さんの話題になった。

 

 

本庶さんはNHKのインタビューで、受賞に結び付いた信念について述べていた。

 

 

「教科書がすべて正しかったら科学の進歩はないわけで、教科書に書いてあることが間違っていることはたくさんある。人が言っていることや教科書に書いてあることをすべて信じてはいけない。『なぜか』と疑っていくことが大事だと思っている」

NHK NEWS WEBから引用)

 

 

自分が実際に見たこと、触ってみたことを信じることが大事。

 

 

 

 

この話題になったとき、社長はふいに、質問してきたのだ。「外国人が日本に旅行しに来るのは何でだと思う?」

 

 

ぼくは「日本の文化やおもてなしに興味があるから来るんじゃないですか?」と答える。

 

しかし、答えたはいいけど、根拠はなかった。ただ、そんなイメージがあるだけ。

 

 

そんな様子をみて、社長はこうつぶやく。

 

「日本の文化が良いってよく言うよね。でもね、本当は日本の技術をのぞきたくて、外国人はくるんじゃないかな?日本人のおもてなしも繊細な技術があってのことだし、ほかのひとに技術を伝えられる長所があるから、海外からやってくる。」

 

 

 

それを聞いたとき、自分がニュースや新聞、ネットの記事、他人から聞いたことをもとに、知ったかぶりしていることに気付いた。

 

ニュースで、『日本の文化』、『おもてなし』というワードが先入観として、僕のなかにある。

 

 

 

ひとから聞いたことに対して、「なんで?」とは思わずに、「へー、なるほどなあ」と浅いとこまでしか、考えていない。

 

誰かから伝えられたことが、自分の先入観を作り出す。

 

 

 

 

 

 深く掘り下げる

 

 

 

ぼくは、「本庶さんは、大学の研究者だからなあ」といった。

 

すると、社長は「いやいや、みんな研究者なんだよ」と。

 

 

「ん?」とぼくは最初、理解できなかった。

 

しかし、よく考えてみよう。

 

ノーベル賞を受賞した本庶さんは、がん細胞の研究について、深く掘り下げただけ。

 

 

 

でもね、みんな同じように仕事でも趣味でも研究しているはずなんだ。

 

 

 

職人だったら、イイものづくりをするために日々、作り方の研究をしている。

 

 

 

パン屋さんもどうやったら、美味しいパンが焼きあがるか常に深く掘り下げる。

 

 

 

本庶さんは、「大学の研究者だから」と偏見を持っていた。

 

 

 

けど、何を深く掘り下げるかは千差万別だけど、みんな同じように「研究している者」であることには変わりない。

 

 

深く掘り下げていった結果、ノーベル賞という肩書が後から付いてきただけなんだ。

 

 

ゼロからイチを作り出せる人に

 

深く掘り下げるひとは、何かを作り出すひとでもある。

 

 

たとえば、営業で商品を売るとしよう。

 

 

取引先の相手に、「この商品のいいところを10個答えてみてください」と聞かれたら、あなたなら何と答えるだろうか。

 

 

自分で商品を開発しているひとならば、その商品のことについて良いところを10個以上パッと出てくるだろう。

 

 

でも、みんなが商品を開発するわけではない。

 

 

だからこそ、自分が扱っている商品に興味をもって、まずはその商品を自分なりに研究してみること。

 

 

その結果、中間職でも良い成績が残せるし、信用が積み重ねることができる。

 

 

まとめ

 

 

 

 

ものごとを深く掘り下げることは大事。

あなたの身の回りのことで、なんとなく知っているけど、根拠はないってことはないだろうか?

 

 

 

 

今回の文章で伝えたかったのは、物事を深く掘り下げないことは「もったいない」ということ。

 

日常では、「なんで」と思わずに受け流してしまうことって本当に多い。

 

 

それを、うまくキャッチするには自分が先入観をもっているということを、思い出すことが必要だ。

 

 

 

 

ぼくたちはみんな、じつは「研究者」なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同じ目線で

対等に見られたい

 

 

 

 

今日の朝、職場の社長と車のなかでろう者について、話し合った。

 

 

ぼくは昨日、参加した東京都聴覚障害者連盟青年部の講演に参加したことについて、伝えたのだ。

 

 

tommy-manabi.hatenablog.com

 

 

すると社長は、「なぜ、その講演に参加しようと思ったの?」と。

 

 

 

僕は「仲のいい、ろう者の友達が企画していたから、参加しようと思ったんです」と答えた。

 

 

遠くを見つめながら、社長はこうつぶやいた。

 

 

「ともくん、ほんとうはね。きっとだけど、障害者という言葉を聞いただけで、相手を見下しているんだよ。」

 

 

僕は、それを聞いて「そんなことないです!」と思わず、口まで出かかった。

 

 

でもね、ろう者のひとたちと一緒にいるときを、振り返ってみると、

 

 

無意識に、「耳が聞こえないから、手話を覚えて理解してあげなきゃ」って知らないうちに思ってしまっている、自分がいた。

 

 

理解してあげなきゃ。

 

 

 

もう、この時点で相手をすでに、対等には見ていないんだ。

 

 

 

自分がろう者だったらと考えてみてほしい。

 

 

 

もし、周りに集まってくる奴が、手話を覚えて「理解してあげよう」って仲良くしてこようとしてきたら?

 

ぼくは正直、クソ食らえだと感じた。

 

いいことをしているって、満足をしている、偽善者。

 

 

心の底から、相手を信用できるだろうか。一緒にいて、本当に笑顔になれるのかな。

 

 

ボランティアも一緒だ。

 

 

僕は大学生の頃にカンボジアに、海外ボランティアへ行ったことがある。

 

 

そのときに、企業から集めた石鹸などの物資を学生だけで集めて、現地の田舎地域の住民に渡した。

 

 

でも、それが本当に現地の人達が欲しいものかすら、知らずに渡していたのだ。

 

 

ボランティアもしてあげるという考えになってしまうことって、多い。

 

 

相手が本当に求めていることかを無視して、自分の承認欲求を満たす行為。

 

 

カンボジアの住民の瞳には僕たちはどう、映っていたんだろう。

 

 

だから、ぼくは言いたい。

 

自分に戒めるためにも。

 

 

 

ときに、「してあげる」っていう行為が周りのひとを、悪い方向に持っていってしまうんだ。

 

 

 

たとえば、あなたが90歳のヨボヨボのお爺ちゃんになったとき。

 

 

若い人や自分よりも下の世代の人と、どう関わってみたいかな?

 

 

「お爺ちゃん大丈夫?」って優しく、いたわってもらいたいかな。

 

 

それとも、そもそも、あまり関わらないかな。

 

 

 

 

ぼくなら、「年寄だから」って思われたくない。

 

 

 

きっと、ろう者のひとも同じ。

 

 

 

「ろう者だからって、特別扱いしないで」って。

 

 

 

結局、何が伝えたいのか。

 

 

それは、相手が求めていることと、自分が求めていることを重ねないこと。

 

 

 

肩を上げて相手に「してあげなきゃ」と意気込むのはもう、やめよう。

 

 

 

 

僕なら、ろう者でも高齢者でも、どんな立場のひとであっても。

 

 

「酒飲もうぜ!」とか、どきつい下ネタを気軽に話せるような関係でありたいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当たり前とは?

 

 音のない世界

 

 

 

 東京都聴覚障害者連盟青年部が主催する講演会がある。

 

この団体は東京都に住む、聴覚障害者の生活と文化や教育の水準を守ったり、聴覚障害者に対する理解を求める活動を行なっている。

 

僕は、大学時代に知り合った、ろう者の友人のつながりで、この講演会に参加してみたのだ。

 

参加している講演会の参加者は、ろう者が多かった。

 

運営者も、ろう者だ。

 

 

だから、会話はすべて手話。音のない世界。

 

 

講演会では、ディスカッションをする時間があり、近い距離でコミュニケーションをとり、とてもアットホームな雰囲気だった。

 

 

今回は、手話が第一言語の環境のなかで、自分がどう感じたかに絞って書いていく。

 

 

 

 

 

ノートテイク

 

 

 

みなさんはノートテイクという言葉を知ってるだろうか?

 

ノートテイクとは「文字通訳」のこと。

 

講義の際にろう者の隣席で、ろう者の「耳の代わり」となり、講義内容や教室内でおこっていることを忠実に聞き取り、筆記やパソコンのワードに文字を打ち込む。

 

ろう者の友人が大学時代にこのノートテイクを耳が聞こえる聴者にやってもらっていた。

 

ぼくも1回だけ大学生のころ、その友人のノートテイクをしたことがある。しかし、教室内での状況を文字で伝えるのは、難しかった記憶がある。

 

 

今回の講演するひとは手話で話す。グループデスカッションも手話。休憩時間も手話。

 

ぼくは、指文字と簡単な手話しか分からないので、相手が何を伝えようとしているのか理解できない。

 

なので、今回は反対に、僕が友人にノートテイクをしてもらい、内容を理解できるように情報保障をしてもらったのだ。

 

f:id:tommy-manabi:20180930195331j:plainろう者の友人が隣に座り、教室内での状況をパソコンのワードで、分りやすく伝えてくれた。

 

 

 

 

健聴者がふつうに声を出して話すけれど、反対にろう者が当たり前のように手話で会話する。

 

 

ようするに、この場所では健聴者がマイノリティ(少数)なのだ。

 

手話は言語だ

 

講演とディスカッションは目にも止まらぬほどの、高速に感じる手話。

 

 

指文字で、ゆっくり自分の考えを説明できるような雰囲気ではなかった。

 

f:id:tommy-manabi:20180923223449j:plain指文字で伝えるためには、スピードがないと相手との会話のリズムがあわなくなくなる。

 

とくにグループディスカッションでは、自分の意見を言うのをためらった。なぜなら手話での表現力が乏しいからだ。

 

たとえば、「人間が生きていくには何が必要か?」と意見を求められたときに、頭に考えは浮かぶけれど手話に置き換えることができない。

 

まるで、アメリカ人のなかに日本人が紛れているような感覚。英語が第一言語みたいなイメージに近い。

 

 

英語が第一言語の国の人と深い話をするには、英語力が必要なのと同じ。

 

 

 

要するに僕が思ったのは、手話は健聴者とろう者を橋渡しするサポーター的な役割じゃないということだ。

 

 

 

 

 手話は英語と同じように確立された言語なんだ。

 

 

 

当たり前って?

 

 

大学時代を振りかえってみる。

 

 ろう者の友人は、大学の講義のなかで聴者と一緒に授業を受けていた。ノートテイクはしてもらって、最低限の情報保障を大学側から受けていた。

 

 

たまに視界に入る、その友人のうしろ姿をみて、どんな気持ちでいるのかを真剣に考えたことがなかった。

 

なぜなら、自分にとって、教授の授業している声が聞こえて当然。

 

グループディスカッションでは、意見を聞いたり、話せることは生まれてからずっと、当たり前だったからだ。

 

 

周りに受けている学生もそれが当たり前だった。

 

 

けれど、今回のろう者が過半数の講演に参加してみて、思ったことが分かったことがある。

 

自分だけが手話を圧倒的に理解できないので、情報保障をしてもらう立場。

 

 

「当たり前ってなんだろう?」

 

 

 

自分が少数派になって、はじめてわかった。

 

 

少数か大勢かでその場の常識は、簡単にくつがえってしまう。

 

 

自分いま、誰かの支援がないと情報を得られないだ。

 

 

情報を保証してもらえることも、こんなにも有難いことだってことを知った。

 

 

 

それは、自分ごとになって、やっと分かること。

 

 

今回、ぼくが手話経験が少ないということを知って、ろう者の運営者と友人は様子を見ながら、内容についてこれるように気を遣ってくれた。

 

 

きっと自分が、同じような経験をしているから、人にも優しくできるし、相手を理解することができるのだと思う。

 

 

相手を本当に理解したいんだったら、自分も同じことをまずは、経験してみることって大事なんだ。

 

 

 

 

 

 もっとたくさん、コミュニケーションを取りたいな。そのために、手話を出来るようにするぞ!!!