当たり前とは?
音のない世界
東京都聴覚障害者連盟青年部が主催する講演会がある。
この団体は東京都に住む、聴覚障害者の生活と文化や教育の水準を守ったり、聴覚障害者に対する理解を求める活動を行なっている。
僕は、大学時代に知り合った、ろう者の友人のつながりで、この講演会に参加してみたのだ。
参加している講演会の参加者は、ろう者が多かった。
運営者も、ろう者だ。
だから、会話はすべて手話。音のない世界。
講演会では、ディスカッションをする時間があり、近い距離でコミュニケーションをとり、とてもアットホームな雰囲気だった。
今回は、手話が第一言語の環境のなかで、自分がどう感じたかに絞って書いていく。
ノートテイク
みなさんはノートテイクという言葉を知ってるだろうか?
ノートテイクとは「文字通訳」のこと。
講義の際にろう者の隣席で、ろう者の「耳の代わり」となり、講義内容や教室内でおこっていることを忠実に聞き取り、筆記やパソコンのワードに文字を打ち込む。
ろう者の友人が大学時代にこのノートテイクを耳が聞こえる聴者にやってもらっていた。
ぼくも1回だけ大学生のころ、その友人のノートテイクをしたことがある。しかし、教室内での状況を文字で伝えるのは、難しかった記憶がある。
今回の講演するひとは手話で話す。グループデスカッションも手話。休憩時間も手話。
ぼくは、指文字と簡単な手話しか分からないので、相手が何を伝えようとしているのか理解できない。
なので、今回は反対に、僕が友人にノートテイクをしてもらい、内容を理解できるように情報保障をしてもらったのだ。
ろう者の友人が隣に座り、教室内での状況をパソコンのワードで、分りやすく伝えてくれた。
健聴者がふつうに声を出して話すけれど、反対にろう者が当たり前のように手話で会話する。
ようするに、この場所では健聴者がマイノリティ(少数)なのだ。
手話は言語だ
講演とディスカッションは目にも止まらぬほどの、高速に感じる手話。
指文字で、ゆっくり自分の考えを説明できるような雰囲気ではなかった。
指文字で伝えるためには、スピードがないと相手との会話のリズムがあわなくなくなる。
とくにグループディスカッションでは、自分の意見を言うのをためらった。なぜなら手話での表現力が乏しいからだ。
たとえば、「人間が生きていくには何が必要か?」と意見を求められたときに、頭に考えは浮かぶけれど手話に置き換えることができない。
まるで、アメリカ人のなかに日本人が紛れているような感覚。英語が第一言語みたいなイメージに近い。
英語が第一言語の国の人と深い話をするには、英語力が必要なのと同じ。
要するに僕が思ったのは、手話は健聴者とろう者を橋渡しするサポーター的な役割じゃないということだ。
手話は英語と同じように確立された言語なんだ。
当たり前って?
大学時代を振りかえってみる。
ろう者の友人は、大学の講義のなかで聴者と一緒に授業を受けていた。ノートテイクはしてもらって、最低限の情報保障を大学側から受けていた。
たまに視界に入る、その友人のうしろ姿をみて、どんな気持ちでいるのかを真剣に考えたことがなかった。
なぜなら、自分にとって、教授の授業している声が聞こえて当然。
グループディスカッションでは、意見を聞いたり、話せることは生まれてからずっと、当たり前だったからだ。
周りに受けている学生もそれが当たり前だった。
けれど、今回のろう者が過半数の講演に参加してみて、思ったことが分かったことがある。
自分だけが手話を圧倒的に理解できないので、情報保障をしてもらう立場。
「当たり前ってなんだろう?」
自分が少数派になって、はじめてわかった。
少数か大勢かでその場の常識は、簡単にくつがえってしまう。
自分いま、誰かの支援がないと情報を得られないだ。
情報を保証してもらえることも、こんなにも有難いことだってことを知った。
それは、自分ごとになって、やっと分かること。
今回、ぼくが手話経験が少ないということを知って、ろう者の運営者と友人は様子を見ながら、内容についてこれるように気を遣ってくれた。
きっと自分が、同じような経験をしているから、人にも優しくできるし、相手を理解することができるのだと思う。
相手を本当に理解したいんだったら、自分も同じことをまずは、経験してみることって大事なんだ。
もっとたくさん、コミュニケーションを取りたいな。そのために、手話を出来るようにするぞ!!!