同じ目線で
対等に見られたい
今日の朝、職場の社長と車のなかでろう者について、話し合った。
ぼくは昨日、参加した東京都聴覚障害者連盟青年部の講演に参加したことについて、伝えたのだ。
すると社長は、「なぜ、その講演に参加しようと思ったの?」と。
僕は「仲のいい、ろう者の友達が企画していたから、参加しようと思ったんです」と答えた。
遠くを見つめながら、社長はこうつぶやいた。
「ともくん、ほんとうはね。きっとだけど、障害者という言葉を聞いただけで、相手を見下しているんだよ。」
僕は、それを聞いて「そんなことないです!」と思わず、口まで出かかった。
でもね、ろう者のひとたちと一緒にいるときを、振り返ってみると、
無意識に、「耳が聞こえないから、手話を覚えて理解してあげなきゃ」って知らないうちに思ってしまっている、自分がいた。
理解してあげなきゃ。
もう、この時点で相手をすでに、対等には見ていないんだ。
自分がろう者だったらと考えてみてほしい。
もし、周りに集まってくる奴が、手話を覚えて「理解してあげよう」って仲良くしてこようとしてきたら?
ぼくは正直、クソ食らえだと感じた。
いいことをしているって、満足をしている、偽善者。
心の底から、相手を信用できるだろうか。一緒にいて、本当に笑顔になれるのかな。
ボランティアも一緒だ。
僕は大学生の頃にカンボジアに、海外ボランティアへ行ったことがある。
そのときに、企業から集めた石鹸などの物資を学生だけで集めて、現地の田舎地域の住民に渡した。
でも、それが本当に現地の人達が欲しいものかすら、知らずに渡していたのだ。
ボランティアもしてあげるという考えになってしまうことって、多い。
相手が本当に求めていることかを無視して、自分の承認欲求を満たす行為。
カンボジアの住民の瞳には僕たちはどう、映っていたんだろう。
だから、ぼくは言いたい。
自分に戒めるためにも。
ときに、「してあげる」っていう行為が周りのひとを、悪い方向に持っていってしまうんだ。
たとえば、あなたが90歳のヨボヨボのお爺ちゃんになったとき。
若い人や自分よりも下の世代の人と、どう関わってみたいかな?
「お爺ちゃん大丈夫?」って優しく、いたわってもらいたいかな。
それとも、そもそも、あまり関わらないかな。
ぼくなら、「年寄だから」って思われたくない。
きっと、ろう者のひとも同じ。
「ろう者だからって、特別扱いしないで」って。
結局、何が伝えたいのか。
それは、相手が求めていることと、自分が求めていることを重ねないこと。
肩を上げて相手に「してあげなきゃ」と意気込むのはもう、やめよう。
僕なら、ろう者でも高齢者でも、どんな立場のひとであっても。
「酒飲もうぜ!」とか、どきつい下ネタを気軽に話せるような関係でありたいな。