『ろう者のトリセツ聴者のトリセツーろう者と聴者の言葉のズレ』
『ろう者のトリセツ聴者のトリセツーろう者と聴者の言葉のズレ』
- 作者: 関西手話カレッジ,野崎栄美子,矢野一規,中上まりん,柴田佳子,寺口史和,磯部大吾
- 出版社/メーカー: 星湖舎
- 発売日: 2009/11
- メディア: 単行本
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この本は、ろう者の友人に勧められたので、借りて読んでみた。
ここでは、「ろう者」と「聴者」の言葉のズレをわかりやすく、イラストを付けて紹介しているのだ。
ぼくは「ろう者」と「聴者」という言葉に慣れない。
なぜなら、ふつうに下ネタや、くだらない話をしたりするからだ。
手話が難しくて、コミュニケーションは取りづらいけれど(泣)
でも、「ろう」ってじつは奥深いんだ。
独自の文化があったり、コミュニティがある。
今回の本にも出てくる、ろう者と聴者での言葉のズレもそのひとつ。
たとえば、私生活でも言葉のズレが生まれる。
ここで、例を出してみよう。
「2時10分前」
友達と待ち合わせたときに、
「2時10分前に集合してね!」
と言われたら、みなさんは何時に行くだろうか?
聴者:2時の10分前だから、1時50分には着くようにいこう!
ろう者:2時10分少し前か。2時7分にいこう!
このように、この言葉を聞いて、聴者とろう者では集合時間が変わるのだ。
聴者が手話で「2時10分前」と表すと。「2時10分前」ではなくて、「2時10分の少し前」という手話表現になっていることが多いという。
だから、聴者は「1時50分」に集合とハッキリ言えば分かりやすい。
この本が伝えたいこと
この本のねらいは、ろう者と聴者の言葉のズレを「知り」、そして認めること。
ズレているから「直す」ことが目的ではないんだ。
手話は日本語とは違う独立した言語であることを伝えようとしている。
ただ、手話をする機会って滅多にないと思う。そしてろう者と出会ったことがないという人がいるかもしれない。
ぼくも、ろう者の友人と出会うまではそうだった。
少しだけ、ぼくが手話と出会った経緯を書いていこうと思う。
手話を知ったきっかけ
ろう者の友人とは大学2年生の教職のクラスで、出会う。
教職は学校の教師になるための資格を取るための過程。高校のようにクラスを作り、週に1回ほど集まって、研究発表をしたり、模擬授業をすることがあった。
週に1回ある、クラスでの集まり。
ろうの友人が皆の前で、手話を使っているのを見て、「耳が聞こえないのかな?」というのはすぐ分かった。
「手話って難しそうだなぁ」
一緒の空間にいるのに、ろう者の友人とは遠い存在のような気がしていた。自分とは無縁だとさえ、思っていた。
しかし、勇気を出して週1回のクラスの集まりのあとに、声を掛けてみると、いつの間にかろう者の友人に手話を教えてもらうことになる。
そこから、少しづつ仲良くなってコミュニケーションを重ねていくと、ろう者の気持ちが分かってきたのだ。
たとえば、ろう者しかいない空間で、聴者は自分ひとりになることがあった。
ろう者の友人の誘いで、ろう者だけのグループに混ざったのだ。
そのときの第一言語は、もちろん「手話」。
ろう者のみんなが楽しそうに笑っているのに、自分だけ周りがどんな会話をしているのか、理解できない。
ひとり会話に置いて行かれる寂しい気持ち。そして、なんといってもソワソワした不安な気持ちになった。
外国人のなかで、自分だけ日本語しか喋れない状況を思い浮かべてほしい。
それと全く一緒。
逆の立場になって、ろう者の気持ちが理解できた。
聴者の集まりのなかでは、ろう者はきっと、息苦しいんだ。
身近のことや、自分ごとにならないと、人の痛みって分からない。
この文章をみても、きっとろう者は遠い存在、関係のない話のように思えるかもしれない。
ぼくも一緒で、ろう者の友人と出会うまでは、関係のない世界だと思っていたから。
でも、ろう者の友人と出会って変わった。
そして、いまでもたまに会って意識高い話をしたり、くだらない話をしたりする関係が続いている。
その友人は聴者とろう者の壁をなくそうと、活動している。
最近、会ったときに印象的だったのが「相手に理解を求めるんじゃなくて、自分から理解してもらえるようにする」と言っていたことだ。
できないことを、周りせいにして諦めるのではなくて、まずは自分が変わること。
まわりにものさしを置くんじゃなくて、じぶんにものさしをおくことが大切なんだ。