職人、ときどき神保町

都内周辺のコミュニティ、おススメの本、日常などを紹介します。

即行動②


GReeeeN - 扉

 

 

前回、GreeeNの『扉』という曲について書いた。 

 

tommy-manabi.hatenablog.com

 

 

 

「即行動」ということば以外にも、印象深いことばがあったので、これから紹介する。

 

 

 

 【印象に残ったフレーズ】

 

「意味がないとただ決め付けて 扉閉めてるんだ
見えないよう 聞こえないようにしてるだけ
明日が何が出来るかなんて 君が決めるだけ」

 

 

 

 

意味がないと決めつける

 

 

なぜか、この歌詞が心に響いた。

 

 

自分自身、意味がないから、止めておこうと思ってしまうことが沢山あるからだ。

 

 

 

なぜ、「意味がない」って思ってしまうんだろう。

 

 

最近、こんなことがあった。

 

大学時代からの友人と神田の居酒屋で、一杯飲んだときのこと。

 

 

 

お酒が入ると、その友人とは熱い話になることが多い。

 

 

だいたい、どうでもいい下ネタか、人生観や生き方の熱い話をする。

 

 

 

そのときに、友人から衝撃的なことを言われたのだ。

 

 

「こうしなきゃいけない」、「できない」、「でも」

 

 

僕が、熱い話をしているときに、よくこの3つの言葉を使っているというのだ。

 

 

否定的な言葉を繰り返し、使っている。

 

 

 

どうやら、僕はじつはネガティブマンになっていたみたいだ。

 

 

 

なぜだ。。。。泣

 

 

 

ぼくはなぜ、ネガティブマンになってしまったのか、自分なりに考えてみた。

 

 

他人のものさし

 

理由のひとつに、「他人のものさし」で物事をみてしまうことにあると思うのだ。

 

他人のものさしで生きるってどういうことか。

 

 

たとえば、仕事で考えてみよう。

 

 

仕事をしていると、「仕事の出来るひと」と「出来ないひと」で見られてしまうし、自分もそういう目で、他人を見てしまう。

 

 

 

僕も仕事で言われたことをこなせなくて、帰り道や家で落ち込むことがよくある。

 

 

なんで、落ち込むかというと、周りのひとに言われるからだ。

 

 

「なんで、できないの?」「はやくできないの?」

 

 

こういう、言葉を繰り返し聞くと「ああ、自分はできない奴なんだ」と気持ちが下向きになるのだ。

 

 

でもね、「仕事ができる」ことが本当にすべてなのかな?

 

 

これって、じつは世間のものさしで捉えてしまっている。

 

 

世間のものさしは適当だ。今日は褒められても、明日は違うことを言われるかもしれない。

 

 

ぜったいに、「こうじゃなきゃいけない」と思うと、心が辛くなるもの。

 

 

 

だから、「できない自分」を許してもいいんだと思うことが大事なんだ。

 

 

 

自分のものさし

 

 自分のものさしってなんだろう?

 

これは、自分で「基準を決めること」だ。

 

 

「しなきゃいけない」の反対は、「こうしたいな」と思うこと。

 

 

 

「こうしたいな」と考えると、自分のなかに基準ができる。

 

 

だれかが決めた基準に従うのではなくて、自分のなかで決めた基準。

 

 

たとえば、英語の勉強をしたい人がいたとしよう。

 

 

●誰かの決めた基準。

 

⇒英語を勉強しておけば間違いないといわれた。興味ないけど、馬鹿にされないように勉強しよう。

 

●自分のなかの基準。

 

⇒外国人の友達と話したいから、英語を勉強する。 

 

 

例みたいに、「英語をしないといけない」と「~のために英語をしたい」の違いでモチベ―ジョンは変わる。

 

 

物事の捉えかた次第で、同じことでも印象がこんなにも変わるのだ。

 

 

 

ネガティブから、ポジティブになるには、自分のなかのものさしを作ってしまうこと。

 

 

自分の「こうしたい」という気持ちを大切にすることが大事なんだ。 

 

 

まとめ

 

 

「 明日が何が出来るかなんて 君が決めるだけ」

 

 

歌詞にもあるように、明日何ができるかなんて、自分で決めること。

 

周りの誰かが、決めることではない。

 

 

「意味がないよ」と思うときって、だいたいは世間のものさしで、物事をみているときなんだ。

 

そうじゃなくて、自分は「こう在りたい、こうしたい」という思いを持つことが大切。

 

 

そうすれば、次の扉が開けるのかもしれないと、この歌から学んだことだ。

 

 

 

 

即行動

GReeeeN - 扉

 

 

 


GReeeeN - 扉

 

今回は、気持ちが前向きになる曲を紹介する。

 

 

GReeeeNの『扉』という曲を知っているだろうか?

 

僕はこの曲に励まされることが多い。

 

 

歌詞には、前向きな言葉がたくさん詰まっているからだ。

 

 

歌詞のなかでも、一番印象的な文章がある。

 

 

 

黙っても過ぎてく日々なら 明後日、明日、今日 意味がある
迷ってばっか 一刻一刻と カレンダーの日付 コツコツと
待ってくれる訳なんてないんだ じゃ今 速攻で既行動!!

 

 

黙っても過ぎていく日々

 

 

 

言葉のとおり、黙っていても、何もしていても毎日は一瞬で過ぎていく。

 

社会人なら、仕事に埋もれたり、学生は時間のあるなかで自分と葛藤することあるだろう。

 

ぼくも、よく考える。

 

 

 

「将来自分は、何をしているのか?」

 

「本当にやりたいことってなんだろう?」

 

 

そんなことは、本当は愚問なのかもしれない。

 

 

答えのない問いだ。

 

 

でも、わかるのは今日、明日が積み重なって、今の自分はいること。

 

 

 

迷っている自分をさらけ出せば、手を止めたり、今や明日のことを考えなくてすむ。

 

 

頑張らなくて大丈夫なように、言い訳ができるんだ。

 

 

でも、その間にもカレンダーの日付は刻々とめくられていく。

 

そして、1年後、3年後に「あのとき、もっと頑張っておけばよかった」と考えてしまうのだろう。

 

 

 

そんな自分を変えるにはどうしたらいいか、歌詞のこの言葉がヒントになるのかもしれない。

 

 

即行動

 

 

思ったが吉。すぐ行動に移すべしとよく言う。

 

 

でも、良い事や自分のやりたいことって、行動に移すのは簡単だ。

 

 

美味しいケーキ食べたければ、今からスーパーに行って、買ってくればいいのだから。

 

 

反対に、やらないといけないことって後回しにしやすい。

 

 

たとえば、LINEの返事。

 

友達に「この日、空いとる?」と言われても「あとで手帳を見ようかなー」と後回しにしたり。

 

 

ほかにも、仕事で使った道具をもとの場所に戻せばいいのに、「あとで戻そー」と後回しにしてしまうこと。

 

 

 

どちらも共通しているのは、今できることなのに、後回しにしてしまうことだ

 

 

 

ひとって、よくわからないことや面倒くさいことは考えるのが苦痛だから、その場の判断を見送ってしまう。

 

 「あとでやればいいや」って。

 

 

 

でも、その場で判断を見送った物事って、あとで絶対にあとで判断を迫られる。

 

 

友達に結局は、返事をしなくてはならないし、整理整頓を怠れば、大掃除という形でやらなきゃいけない。

 

そして、やらなきゃいけないことが溜まっていくと、目の前のことをやっていても、後回しにしていたことが気になってしまい、集中できないのだ。

 

 

 

先でも、あとでもやることが一緒なら、即行動に移すことが大事だと、この歌詞から、学んだこと。

 

 

 

 

即行動を積み重ねていけば、自分の興味のあることに打ち込める時間が作れたり、もっと心に余裕を持たせることが出来るんじゃないだろうか?

 

 

やりたいことも後回しにしてしまう

 

 

 

 自分のやってみたいことも、じつは考えることが多いから後回しにしてしまいがち。

 

 

たとえば、旅行するにも航空券代を調べたり、現地の観光スポットを調べるなきゃいけない。

 

これって、めんどくさい印象はあっても、その場で、スマホで案外サクッと完了してしまうことが多い。

 

きっと、やりたいことも「なにをしていいかわからない」と言い訳にして、立ち止まってしまっているんだ。

 

 

何がわからないのか、深掘る。そして、やらなきゃいけないことが明確になったら、即行動に移す。

 

さっきの、旅行の話でいえば、「旅行したい。けど、準備をなにしたらいいか分からん。よくわからんから、後回しすっか。」

 

ではなくて、「旅行の準備って何が必要なんだろう?あっ。そもそも、旅行に必要な準備すら分からないんだ。じゃあ、スマホで準備のリスト調べてみよう」って。

 

 

やりたいことも、やらなきゃいけないことも即行動。

 

 

黙って過ぎていく、今日を意味あるものにするために、即行動する。

 

 

 

 

 

 

 

 

ゼロからイチを作り出す

自分で感じたことを信じる

 

 

 

今日の昼。社長と昼休憩中に話しているとき、日本でノーベル賞を受賞した本庶佑(ほんじょたすく)さんの話題になった。

 

 

本庶さんはNHKのインタビューで、受賞に結び付いた信念について述べていた。

 

 

「教科書がすべて正しかったら科学の進歩はないわけで、教科書に書いてあることが間違っていることはたくさんある。人が言っていることや教科書に書いてあることをすべて信じてはいけない。『なぜか』と疑っていくことが大事だと思っている」

NHK NEWS WEBから引用)

 

 

自分が実際に見たこと、触ってみたことを信じることが大事。

 

 

 

 

この話題になったとき、社長はふいに、質問してきたのだ。「外国人が日本に旅行しに来るのは何でだと思う?」

 

 

ぼくは「日本の文化やおもてなしに興味があるから来るんじゃないですか?」と答える。

 

しかし、答えたはいいけど、根拠はなかった。ただ、そんなイメージがあるだけ。

 

 

そんな様子をみて、社長はこうつぶやく。

 

「日本の文化が良いってよく言うよね。でもね、本当は日本の技術をのぞきたくて、外国人はくるんじゃないかな?日本人のおもてなしも繊細な技術があってのことだし、ほかのひとに技術を伝えられる長所があるから、海外からやってくる。」

 

 

 

それを聞いたとき、自分がニュースや新聞、ネットの記事、他人から聞いたことをもとに、知ったかぶりしていることに気付いた。

 

ニュースで、『日本の文化』、『おもてなし』というワードが先入観として、僕のなかにある。

 

 

 

ひとから聞いたことに対して、「なんで?」とは思わずに、「へー、なるほどなあ」と浅いとこまでしか、考えていない。

 

誰かから伝えられたことが、自分の先入観を作り出す。

 

 

 

 

 

 深く掘り下げる

 

 

 

ぼくは、「本庶さんは、大学の研究者だからなあ」といった。

 

すると、社長は「いやいや、みんな研究者なんだよ」と。

 

 

「ん?」とぼくは最初、理解できなかった。

 

しかし、よく考えてみよう。

 

ノーベル賞を受賞した本庶さんは、がん細胞の研究について、深く掘り下げただけ。

 

 

 

でもね、みんな同じように仕事でも趣味でも研究しているはずなんだ。

 

 

 

職人だったら、イイものづくりをするために日々、作り方の研究をしている。

 

 

 

パン屋さんもどうやったら、美味しいパンが焼きあがるか常に深く掘り下げる。

 

 

 

本庶さんは、「大学の研究者だから」と偏見を持っていた。

 

 

 

けど、何を深く掘り下げるかは千差万別だけど、みんな同じように「研究している者」であることには変わりない。

 

 

深く掘り下げていった結果、ノーベル賞という肩書が後から付いてきただけなんだ。

 

 

ゼロからイチを作り出せる人に

 

深く掘り下げるひとは、何かを作り出すひとでもある。

 

 

たとえば、営業で商品を売るとしよう。

 

 

取引先の相手に、「この商品のいいところを10個答えてみてください」と聞かれたら、あなたなら何と答えるだろうか。

 

 

自分で商品を開発しているひとならば、その商品のことについて良いところを10個以上パッと出てくるだろう。

 

 

でも、みんなが商品を開発するわけではない。

 

 

だからこそ、自分が扱っている商品に興味をもって、まずはその商品を自分なりに研究してみること。

 

 

その結果、中間職でも良い成績が残せるし、信用が積み重ねることができる。

 

 

まとめ

 

 

 

 

ものごとを深く掘り下げることは大事。

あなたの身の回りのことで、なんとなく知っているけど、根拠はないってことはないだろうか?

 

 

 

 

今回の文章で伝えたかったのは、物事を深く掘り下げないことは「もったいない」ということ。

 

日常では、「なんで」と思わずに受け流してしまうことって本当に多い。

 

 

それを、うまくキャッチするには自分が先入観をもっているということを、思い出すことが必要だ。

 

 

 

 

ぼくたちはみんな、じつは「研究者」なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同じ目線で

対等に見られたい

 

 

 

 

今日の朝、職場の社長と車のなかでろう者について、話し合った。

 

 

ぼくは昨日、参加した東京都聴覚障害者連盟青年部の講演に参加したことについて、伝えたのだ。

 

 

tommy-manabi.hatenablog.com

 

 

すると社長は、「なぜ、その講演に参加しようと思ったの?」と。

 

 

 

僕は「仲のいい、ろう者の友達が企画していたから、参加しようと思ったんです」と答えた。

 

 

遠くを見つめながら、社長はこうつぶやいた。

 

 

「ともくん、ほんとうはね。きっとだけど、障害者という言葉を聞いただけで、相手を見下しているんだよ。」

 

 

僕は、それを聞いて「そんなことないです!」と思わず、口まで出かかった。

 

 

でもね、ろう者のひとたちと一緒にいるときを、振り返ってみると、

 

 

無意識に、「耳が聞こえないから、手話を覚えて理解してあげなきゃ」って知らないうちに思ってしまっている、自分がいた。

 

 

理解してあげなきゃ。

 

 

 

もう、この時点で相手をすでに、対等には見ていないんだ。

 

 

 

自分がろう者だったらと考えてみてほしい。

 

 

 

もし、周りに集まってくる奴が、手話を覚えて「理解してあげよう」って仲良くしてこようとしてきたら?

 

ぼくは正直、クソ食らえだと感じた。

 

いいことをしているって、満足をしている、偽善者。

 

 

心の底から、相手を信用できるだろうか。一緒にいて、本当に笑顔になれるのかな。

 

 

ボランティアも一緒だ。

 

 

僕は大学生の頃にカンボジアに、海外ボランティアへ行ったことがある。

 

 

そのときに、企業から集めた石鹸などの物資を学生だけで集めて、現地の田舎地域の住民に渡した。

 

 

でも、それが本当に現地の人達が欲しいものかすら、知らずに渡していたのだ。

 

 

ボランティアもしてあげるという考えになってしまうことって、多い。

 

 

相手が本当に求めていることかを無視して、自分の承認欲求を満たす行為。

 

 

カンボジアの住民の瞳には僕たちはどう、映っていたんだろう。

 

 

だから、ぼくは言いたい。

 

自分に戒めるためにも。

 

 

 

ときに、「してあげる」っていう行為が周りのひとを、悪い方向に持っていってしまうんだ。

 

 

 

たとえば、あなたが90歳のヨボヨボのお爺ちゃんになったとき。

 

 

若い人や自分よりも下の世代の人と、どう関わってみたいかな?

 

 

「お爺ちゃん大丈夫?」って優しく、いたわってもらいたいかな。

 

 

それとも、そもそも、あまり関わらないかな。

 

 

 

 

ぼくなら、「年寄だから」って思われたくない。

 

 

 

きっと、ろう者のひとも同じ。

 

 

 

「ろう者だからって、特別扱いしないで」って。

 

 

 

結局、何が伝えたいのか。

 

 

それは、相手が求めていることと、自分が求めていることを重ねないこと。

 

 

 

肩を上げて相手に「してあげなきゃ」と意気込むのはもう、やめよう。

 

 

 

 

僕なら、ろう者でも高齢者でも、どんな立場のひとであっても。

 

 

「酒飲もうぜ!」とか、どきつい下ネタを気軽に話せるような関係でありたいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当たり前とは?

 

 音のない世界

 

 

 

 東京都聴覚障害者連盟青年部が主催する講演会がある。

 

この団体は東京都に住む、聴覚障害者の生活と文化や教育の水準を守ったり、聴覚障害者に対する理解を求める活動を行なっている。

 

僕は、大学時代に知り合った、ろう者の友人のつながりで、この講演会に参加してみたのだ。

 

参加している講演会の参加者は、ろう者が多かった。

 

運営者も、ろう者だ。

 

 

だから、会話はすべて手話。音のない世界。

 

 

講演会では、ディスカッションをする時間があり、近い距離でコミュニケーションをとり、とてもアットホームな雰囲気だった。

 

 

今回は、手話が第一言語の環境のなかで、自分がどう感じたかに絞って書いていく。

 

 

 

 

 

ノートテイク

 

 

 

みなさんはノートテイクという言葉を知ってるだろうか?

 

ノートテイクとは「文字通訳」のこと。

 

講義の際にろう者の隣席で、ろう者の「耳の代わり」となり、講義内容や教室内でおこっていることを忠実に聞き取り、筆記やパソコンのワードに文字を打ち込む。

 

ろう者の友人が大学時代にこのノートテイクを耳が聞こえる聴者にやってもらっていた。

 

ぼくも1回だけ大学生のころ、その友人のノートテイクをしたことがある。しかし、教室内での状況を文字で伝えるのは、難しかった記憶がある。

 

 

今回の講演するひとは手話で話す。グループデスカッションも手話。休憩時間も手話。

 

ぼくは、指文字と簡単な手話しか分からないので、相手が何を伝えようとしているのか理解できない。

 

なので、今回は反対に、僕が友人にノートテイクをしてもらい、内容を理解できるように情報保障をしてもらったのだ。

 

f:id:tommy-manabi:20180930195331j:plainろう者の友人が隣に座り、教室内での状況をパソコンのワードで、分りやすく伝えてくれた。

 

 

 

 

健聴者がふつうに声を出して話すけれど、反対にろう者が当たり前のように手話で会話する。

 

 

ようするに、この場所では健聴者がマイノリティ(少数)なのだ。

 

手話は言語だ

 

講演とディスカッションは目にも止まらぬほどの、高速に感じる手話。

 

 

指文字で、ゆっくり自分の考えを説明できるような雰囲気ではなかった。

 

f:id:tommy-manabi:20180923223449j:plain指文字で伝えるためには、スピードがないと相手との会話のリズムがあわなくなくなる。

 

とくにグループディスカッションでは、自分の意見を言うのをためらった。なぜなら手話での表現力が乏しいからだ。

 

たとえば、「人間が生きていくには何が必要か?」と意見を求められたときに、頭に考えは浮かぶけれど手話に置き換えることができない。

 

まるで、アメリカ人のなかに日本人が紛れているような感覚。英語が第一言語みたいなイメージに近い。

 

 

英語が第一言語の国の人と深い話をするには、英語力が必要なのと同じ。

 

 

 

要するに僕が思ったのは、手話は健聴者とろう者を橋渡しするサポーター的な役割じゃないということだ。

 

 

 

 

 手話は英語と同じように確立された言語なんだ。

 

 

 

当たり前って?

 

 

大学時代を振りかえってみる。

 

 ろう者の友人は、大学の講義のなかで聴者と一緒に授業を受けていた。ノートテイクはしてもらって、最低限の情報保障を大学側から受けていた。

 

 

たまに視界に入る、その友人のうしろ姿をみて、どんな気持ちでいるのかを真剣に考えたことがなかった。

 

なぜなら、自分にとって、教授の授業している声が聞こえて当然。

 

グループディスカッションでは、意見を聞いたり、話せることは生まれてからずっと、当たり前だったからだ。

 

 

周りに受けている学生もそれが当たり前だった。

 

 

けれど、今回のろう者が過半数の講演に参加してみて、思ったことが分かったことがある。

 

自分だけが手話を圧倒的に理解できないので、情報保障をしてもらう立場。

 

 

「当たり前ってなんだろう?」

 

 

 

自分が少数派になって、はじめてわかった。

 

 

少数か大勢かでその場の常識は、簡単にくつがえってしまう。

 

 

自分いま、誰かの支援がないと情報を得られないだ。

 

 

情報を保証してもらえることも、こんなにも有難いことだってことを知った。

 

 

 

それは、自分ごとになって、やっと分かること。

 

 

今回、ぼくが手話経験が少ないということを知って、ろう者の運営者と友人は様子を見ながら、内容についてこれるように気を遣ってくれた。

 

 

きっと自分が、同じような経験をしているから、人にも優しくできるし、相手を理解することができるのだと思う。

 

 

相手を本当に理解したいんだったら、自分も同じことをまずは、経験してみることって大事なんだ。

 

 

 

 

 

 もっとたくさん、コミュニケーションを取りたいな。そのために、手話を出来るようにするぞ!!!

 

 

 

スープカレー屋オオドリー

 

スープカレー屋オオドリ―

 

 

 

 

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神田にあるカレー屋。

 

このお店では、ただのカレーではなくスープカレーが出てくるのだ。

 

 

学生のときに、有名なお店ということは噂で聞いていた。

 

でも、「何で人気なんだろう?」と不思議だった。

 

実際に足を運んでみて、おすすめだと思ったポイントを2つだけ、書いていこうと思う。

 

 

スープカレーと野菜の相性

 

スープカレーと聞いて、「味が薄いんじゃないの?」と偏見を持っていた。

 

実際に食べてみると確かに薄い。でも、具の野菜と相性がいいのだ。

 

スープや汁物に野菜が入っている感覚。

 

違和感がまったくないのだ。スープが目立ちすぎないで、野菜の本来の味を生かしている。

 

 

 

f:id:tommy-manabi:20180930013119j:plain1、スープは黒と赤を選べる。

 

 

 

 

 

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2、辛さを選ぶ。

 

 

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3、具を選ぶ

 

 

 

 

f:id:tommy-manabi:20180930012106j:plain野菜カレー。具はピーマン、ナス、ジャガイモ、にんじん、たまねぎ、ゆでたまごが入っている。スープの触感と、野菜の組み合わせが見事にマッチしている。

 

 

 

②ライスおかわりOK!

 

カレーを食べるとき、ルーとライスどちらを多くスプーンに乗せるだろうか?

 

多くのひとがルーをのこしといて、ライスをおかわりする。

 

そんな、学校給食のようなことができるお店がオードリーだ。

 

よーく、メニュー表を見ていると。

 

 

f:id:tommy-manabi:20180930014617j:plain最初、気づかなかったが何とライスがおかわり自由なのだ。ライスをおかわり自由のカレーは、初めての経験で間違いではないか何度も見直した。

 

 

 

800円でご飯をおかわり自由。それは人気になると、納得した瞬間だった。

 

 

オードリーという名前の由来 

 

 

これには、いろんな説がある。

 

大きな鳥、オーナーがオードリー・ヘップ・バーンを好きという説。ほかにも、何個かある。

 

それよりも、お店の名前の由来を店員に尋ねたときに、忙しいなかでも誠実に答えてくれた店員さんがもしかしたら、オードリーが人気の秘密なのかもしれない。

 

ご飯のおかわり自由もお客さんを喜ばしている。

 

このお店のオーナーは、きっとひとを楽しませるのが好きなのかな、と思いを馳せてみた。

 

 

●お店の詳細

 

【住所】

東京都千代田区神田小川町3-10-18

 

 

食べログ

 

 

『ろう者のトリセツ聴者のトリセツーろう者と聴者の言葉のズレ』

 『ろう者のトリセツ聴者のトリセツーろう者と聴者の言葉のズレ』

 

 

 

ろう者のトリセツ聴者のトリセツ―ろう者と聴者の言葉のズレ

ろう者のトリセツ聴者のトリセツ―ろう者と聴者の言葉のズレ

  • 作者: 関西手話カレッジ,野崎栄美子,矢野一規,中上まりん,柴田佳子,寺口史和,磯部大吾
  • 出版社/メーカー: 星湖舎
  • 発売日: 2009/11
  • メディア: 単行本
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この本は、ろう者の友人に勧められたので、借りて読んでみた。

 

ここでは、「ろう者」と「聴者」の言葉のズレをわかりやすく、イラストを付けて紹介しているのだ。

 

 

ぼくは「ろう者」と「聴者」という言葉に慣れない。

 

 

なぜなら、ふつうに下ネタや、くだらない話をしたりするからだ。

 

 

手話が難しくて、コミュニケーションは取りづらいけれど(泣)

 

 

 

 

 

でも、「ろう」ってじつは奥深いんだ。

 

 

独自の文化があったり、コミュニティがある。

 

 

今回の本にも出てくる、ろう者と聴者での言葉のズレもそのひとつ。

 

 

たとえば、私生活でも言葉のズレが生まれる。

 

ここで、例を出してみよう。

 

 

 

「2時10分前」

 

 

 

友達と待ち合わせたときに、

 

 

「2時10分前に集合してね!」

 

と言われたら、みなさんは何時に行くだろうか?

 

 

 

 

 

聴者:2時の10分前だから、1時50分には着くようにいこう!

 

ろう者:2時10分少し前か。2時7分にいこう!

 

 

 このように、この言葉を聞いて、聴者とろう者では集合時間が変わるのだ。

 

 

聴者が手話で「2時10分前」と表すと。「2時10分前」ではなくて、「2時10分の少し前」という手話表現になっていることが多いという。

 

だから、聴者は「1時50分」に集合とハッキリ言えば分かりやすい。

 

 

この本が伝えたいこと

 

 

 この本のねらいは、ろう者と聴者の言葉のズレを「知り」、そして認めること。

 

ズレているから「直す」ことが目的ではないんだ。

 

 

手話は日本語とは違う独立した言語であることを伝えようとしている。

 

 

ただ、手話をする機会って滅多にないと思う。そしてろう者と出会ったことがないという人がいるかもしれない。

 

 

ぼくも、ろう者の友人と出会うまではそうだった。

 

 

 

少しだけ、ぼくが手話と出会った経緯を書いていこうと思う。

 

 

手話を知ったきっかけ

 

 

 

ろう者の友人とは大学2年生の教職のクラスで、出会う。

 

 

教職は学校の教師になるための資格を取るための過程。高校のようにクラスを作り、週に1回ほど集まって、研究発表をしたり、模擬授業をすることがあった。

 

 

週に1回ある、クラスでの集まり。

 

 

ろうの友人が皆の前で、手話を使っているのを見て、「耳が聞こえないのかな?」というのはすぐ分かった。

 

 

 

「手話って難しそうだなぁ」

 

 

一緒の空間にいるのに、ろう者の友人とは遠い存在のような気がしていた。自分とは無縁だとさえ、思っていた。

 

 

しかし、勇気を出して週1回のクラスの集まりのあとに、声を掛けてみると、いつの間にかろう者の友人に手話を教えてもらうことになる。

 

 

そこから、少しづつ仲良くなってコミュニケーションを重ねていくと、ろう者の気持ちが分かってきたのだ。

 

 

たとえば、ろう者しかいない空間で、聴者は自分ひとりになることがあった。

 

ろう者の友人の誘いで、ろう者だけのグループに混ざったのだ

 

 

そのときの第一言語は、もちろん「手話」。

 

 

ろう者のみんなが楽しそうに笑っているのに、自分だけ周りがどんな会話をしているのか、理解できない。

 

ひとり会話に置いて行かれる寂しい気持ち。そして、なんといってもソワソワした不安な気持ちになった。

 

 

外国人のなかで、自分だけ日本語しか喋れない状況を思い浮かべてほしい。

 

それと全く一緒。

 

逆の立場になって、ろう者の気持ちが理解できた。


聴者の集まりのなかでは、ろう者はきっと、息苦しいんだ。

 

 

身近のことや、自分ごとにならないと、人の痛みって分からない。

 

 

この文章をみても、きっとろう者は遠い存在、関係のない話のように思えるかもしれない。

 

 

 

ぼくも一緒で、ろう者の友人と出会うまでは、関係のない世界だと思っていたから。

 

 

 

でも、ろう者の友人と出会って変わった。

 

 

そして、いまでもたまに会って意識高い話をしたり、くだらない話をしたりする関係が続いている。

 

 

 

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その友人は聴者とろう者の壁をなくそうと、活動している。

 

 

最近、会ったときに印象的だったのが「相手に理解を求めるんじゃなくて、自分から理解してもらえるようにする」と言っていたことだ。

 

できないことを、周りせいにして諦めるのではなくて、まずは自分が変わること

 

 

まわりにものさしを置くんじゃなくて、じぶんにものさしをおくことが大切なんだ。